序章
第1章 幼少期
第2章 小学生時代
第3章 小学高学年時代
第4章 中学・高校時代
第5章 大学と迷走の始まり
第6章 栄光と挫折
第7章 どん底と再生
終章(続く)
序章
人生は、時に容赦なく僕たちを試す。どれだけ努力を重ねても報われないことがあるし、目の前に絶望のような壁が立ちはだかることもある。そんなとき、人は深い闇に飲み込まれ、心を押しつぶされるような苦しみを味わう。
それでも、人間には立ち上がる力がある。僕自身、何度も失敗してきた。そのたびに絶望を感じ、どうしようもなく落ち込んだ。でも、どんなに打ちのめされても、結局はまた前を向いて歩き出してきた。
振り返れば、本当にどうしようもないどん底の時期が何度もあった。すべてを失い、もがき苦しみながら、それでも諦めずに進んできた。何度倒れても、歩み続ける限り、人生は終わらないと信じている。
この物語は、僕が経験してきた、たった40年の記録。もし、今どうしようもない苦しみの中にいる人がいたら、伝えたいことがある。どんな状況でも、前を向いて生きることはできるし、人は思っている以上に強い。僕の歩んできた道が、少しでもその力を感じるきっかけになれば嬉しい。
第1章 幼少期
仁徳天皇陵が有名な大阪・堺市の百舌鳥(もず)で生まれ育った。百舌鳥と聞いてピンとこない人もいるかもしれないが、大阪らしさが凝縮された街だ。おっさんとおばはんがそこら中に溢れかえり、祭り命の人が多い。人情がありすぎるくらいで、正直、ちょっとしんどい。
1歳から3歳までの記憶はほとんどない。ただ、4歳のとき、神吉(しんきち)おじいちゃんと過ごした時間だけは、昨日のことのように鮮明に覚えている。おじいちゃんは手先が器用で、電車の模型作りが得意だった。僕は膝の上に乗せてもらいながら、一緒に電車が走るのを夢中で見つめていた。自転車の後ろに乗り、南海電車を見に行くと、高野号の力強い走りに心を奪われた。おじいちゃんとの日々は、まるで夢のようで、毎日がワクワクドキドキの連続だった。
5歳で幼稚園に入ると、初めて「好き」という気持ちを知った。それも、なぜか一度に3人。しかし、初めてのキスは、予想外の形で訪れた。全然タイプじゃない女の子に、突然キスをされたのだ。その瞬間、驚き、悔しさ、そして悲しさが入り混じった、何とも言えない複雑な感情が僕を包み込んだ。それが、僕のファーストキス。今となっては、好きだった3人の女の子の名前は忘れてしまったが、あの時キスをされた女の子――りえちゃんの名前だけは今でもはっきり覚えている。
6歳、小学校入学を前にして、僕は人生最大の恥を経験する。教室で、うんこを漏らしてしまったのだ。しかも、1年で2回。クラスのみんなに大笑いされ、僕はただただ泣きじゃくった。恥ずかしさと情けなさで、「好きな子にバレていませんように」と心から願った。でも、絶対バレていた。そんな時、唯一僕を慰めてくれたのは、おじいちゃんのハッタイ粉と、キミコおばあちゃんの塩ラーメンだった。温かい味が、少しだけ僕の心を癒してくれた。
幼少期の出来事は、今の僕の性格に深く刻まれている。おじいちゃんとの時間は物作りへの興味を育み、初めての恋は、人を好きになる喜びと切なさを教えてくれた。そして、うんこを漏らしたあの日のことは、恥ずかしい過去を受け入れ、乗り越える強さを与えてくれた。


第2章 小学生時代
7歳。希望と不安を胸に、小学校の門をくぐった。
実家のすぐ隣が小学校で、歩いて30秒。
家から出て、ほんの数歩で校門に着く。
そんなに近いのに、たった1年後、
ここが地獄の入り口になるなんて、
この時の僕は想像すらできなかったはずだ。
1年生の記憶は、ほとんど残っていない。
ただ、うっすらと勉強が楽しかったことは覚えている。
でも、8歳の記憶があまりにも濃すぎて、
1年生の頃の記憶なんて押し潰されてしまった。
8歳、小学校2年生。
それは、僕が地獄を知った年だった。
いじめ。
そんな言葉で片付けられるようなものじゃない。
僕が生きている間ずっと心にこびりつく、「呪い」みたいなものだった。
朝、学校へ行くのが怖かった。
何度も逃げようと思った。
でも、行くしかない。
行ったら地獄が待っている。
教科書を開けば、ページの間に生きたナメクジがねじ込まれていた。
体操服には、誰かの吐しゃ物が塗りつけられていた。
休み時間には、ドブ川に突き落とされた。
上履きを履けば、つま先に鋭い痛みが走る。画鋲だ。
「痛っ!!」
と叫ぶと、周りの奴らは爆笑していた。
それは、毎日繰り返される悪意に満ちた儀式だった。
放課後、ようやく解放されるかと思えば、そうはいかない。
家の近くにある、無理やり作らされた「秘密基地」。
本当なら楽しいはずの場所。
でも、そこは僕にとって、ただの監獄だった。
殴られる。蹴られる。笑われる。
当然、門限まで帰してもらえない。
やっと解放されても、家に帰れば親に怒られる。
「なんでこんな時間まで遊んでたの!」
違うんだ。遊んでたんじゃない。帰れなかったんだ。
でも、何も言えなかった。
先生は見て見ぬふりをしていた。
家に帰っても、誰もいなかった。
どこにも逃げ場がなかった。
「ゆうじくん、元気かい?
君のことを、俺は一生忘れない。
たかが小学2年の話だけど、年齢は関係なく、
トラウマのように死ぬまでこびりついていく。
君にとっては、ただの「遊び」や発散だったんだろう。
でも、俺にとっては、命が削られる時間だった。
ある日、俺は「やめてくれ」と言った。
その瞬間、お前は嬉しそうに笑って、もっと酷く殴った。
お前に聞きたいことがある。
今、お前はどんな大人になった?
子どもを持つ親になったか?
仕事をして、誰かと笑い合っているか?
今も、お前の笑い声が耳にこびりついてるよ。
忘れたくても、忘れられない。
ゆうじくん、元気かい?」
9歳、小学校3年生。
クラス替えで、僕は奇跡的にいじめから解放された。
地獄は突然終わった。
いや、正確には「終わった」のではなく、「なかったことにされた」。
いじめていた奴らは、まるで何事もなかったかのように、平然としていた。
先生も、何もなかったように接してきた。
まるで、あの1年間は「存在しなかった」みたいに。
でも、僕はまだ覚えている。
痛みも、恐怖も、絶望も、そして、あの時感じた孤独や無力感も。
それでも、新しいクラスメイトは僕を温かく迎えてくれた。
ようやく、普通の子どもとして生きられる。
その嬉しさに、気づけば笑顔になっていた。
そして、初めて「両想い」というものを経験した。
好きな子が、自分を好きになってくれる。
そんな奇跡のような出来事が、本当にあるんだと知った。
胸がドキドキする。名前を呼ばれるだけで、頬が熱くなる。
めぐみちゃんの声は、まるで温かい春の日差しのようだった。
あの時、華やかな空間にしてくれためぐみちゃん、ありがとう。
この頃から、スポーツに興味を持ち始めた。
体を動かす楽しさを知り、自分の見た目に気を使うようになった。
苦しみや辛さは、環境が変われば一瞬で消える。
でも、記憶には一生残る。
だから、「いい経験」だったなんて、絶対に思わない。
それでも、あの時、私に地獄を見せた人、
そして、その後に救ってくれた人、
人生で絶対に忘れない記憶をくれた人たち、ありがとう。

第3章 小学高学年時代
10歳から12歳。
小学校の高学年は、奇跡的に楽しく過ごせた。
あれだけ苦しかった低学年時代の反動だろうか。
ほんの些細なことでも、嬉しく感じられた。
もしあの時、クラス替えがあってもいじめが続いていたら、確実に登校拒否になっていただろう。
そうなれば、僕の人生は今とはまったく違うものになっていたはずだ。
いじめのターゲットは、僕から別の誰かへ移っていた。
それを知りながらも、僕は何もできなかった。
だからせめて、見えないふりをして、学校を楽しむことに必死だった。
そのせいか、僕は同級生より少しだけ精神的に大人になるのが早かった気がする。
周りの視線を気にするようになったのも、その頃からだった。
それに加えて、4つ上の姉がヤンチャだった影響もあり、僕は ヤンキー漫画 にどハマりした。
特に 『BAD BOYS』 。
主人公・桐木司の生き様に憧れた。
舞台が広島だったこともあり、野球のルールもよく分からないのに、
広島カープの試合をテレビで眺めるようになった。
その中で、一人の選手に惹かれた。
「3番・前田」
豪快なスイングと、どこか孤高な雰囲気がかっこよかった。
男女関係なく、友達と笑い合う時間が増えた。
学校へ行くのが楽しくなり、少しずつ自信がついていった。
当時は 『SLAM DUNK』 が大人気だったこともあり、僕はバスケ部に入った。
大人数の中でがむしゃらに練習し、小学6年生のときにはキャプテンになった。
あの頃の僕は、まるで別世界にいるようだった。
ボールを追いかけ、汗を流しながら、心も体もどんどん成長していった気がする。
少しマセた小学生たちが、流行りの音楽や将来の夢を語り合う。
帰り道はいつも名残惜しかった。
家の前にある ツジノ文具店 。
そこに置かれた、たった 2台のゲーム機 。
いつも友達とたむろし、夢中で遊んだ。
何気ない日々だった。
でも、僕にとっては かけがえのない時間 だった。
ただ…
今振り返ると、小学校生活は 「たった1年の地獄」 のせいで、
残りの5年間を 無理やり楽しいものにしようとした 6年間だったのかもしれない。
そして、小学校を卒業した。
だが、平穏な日々は長くは続かなかった。
僕は 中学生になり、再び”恐怖”と出会うことになる。

第4章 中学・高校時代
12歳(小学校卒業)
小学校を卒業する少し前、父が新品の野球グローブを買ってくれた。
たぶん、近所のスポーツ用品店で手頃なものを選んだのだろう。
理由はわかっていた。
僕がなんとなく、テレビで広島カープの試合を見ていたからだ。
でも、野球が特別好きだったわけじゃない。
中学ではバスケ部に入るつもりだったし、友達ともその話で盛り上がっていた。
それなのに、なぜか父とキャッチボールをしていた。
革の感触、ボールをつかむときのしっくりくる感覚、
パシッとミットに収まる音……思ったよりも楽しかった。
気づけば、僕は野球部に入っていた。
⸻
14歳(中学2年)
野球を続けているうちに、いつの間にか試合に出るのが当たり前になっていた。
1番センター、2番手ピッチャー、副キャプテン。
そんなとき、エースがケガをした。
「景介、お前が投げろ」
突然の大役だったが、不思議と緊張はなかった。
マウンドに立ち、ただ夢中で腕を振った。
結果として、5回戦まで全試合を投げた。
観客の視線を浴び、仲間の声を背に受けながら投げるのは、
純粋に気持ちよかった。
その頃から、「人前に立つこと」に対する意識が変わり始めた。
注目されるのは悪くない。むしろ、好きかもしれない。
そんな感覚があったから、生徒会副会長に立候補し、当選した。
ただ、それが自分の人生を大きく変えることになるとは、この時は思っていなかった。
生徒会長は女子だったが、僕も学校行事の運営やスピーチを任される立場になった。
そしてある日、全校生徒の前で話す機会が訪れた。
壇上に立ち、マイクを握る。
深呼吸をして、一言目を発した……が、3秒後。
声が出なくなった。
何が起きたのか分からない。
頭が真っ白になり、体が硬直した。
無理に喋ろうとしたが、口が動かず、そのまま挨拶は終了。
全校生徒のざわつく声が聞こえた。
顔が熱くなった。
それ以来、「話すこと」に対する強い恐怖が生まれた。
授業中の音読すら声が震え、まともに話せない。
母に相談し、病院へ行った。
医師は静かに言った。
「社交不安障害ですね」
そんなことでビビるなと自分に言い聞かせても、体が勝手に反応する。
この症状とは、その後も長い付き合いになる……。


16歳(高校入学)
野球の強豪校に進学した。
けれど、待っていたのは想像を絶する環境だった。
軍隊のような規律。
先輩の命令は絶対。
水を飲むことすら制限され、喉が渇けばトイレの水を隠れて飲むしかなかった。
狂気のような毎日。
それでも、「好きなことをしている」という実感だけが、僕を支えていた。
しかし——
全国からエース級の選手が120人も集まるチームの中で、僕は完全に埋もれていた。
さらに、パニック発作も治っていなかった。
授業中、発表の順番が近づくだけで手が震える。
何もしていないのに、息が苦しくなる。
ただひたすらに「授業が怖い」と思っていた。
それでも、野球だけは続けた。
それ以外に、自分を保つ方法がなかった。
⸻
18歳(高校卒業)
野球部を引退した。
親に負担をかけたくなくて、酒屋でアルバイトを始めた。
でも、人と接するのが怖かった。
客の声を聞くのが嫌で、わざと耳を塞ぐように息を吸い、音を遠ざけた。
今思えば、あんな状態で仕事ができていたとは思えない。
それでも、お金を稼がないといけなかった。
これ以上、親に迷惑をかけたくなかった。
……でも。
ある日、倉庫に並ぶ酒瓶をじっと見つめていた。
手が伸びた。
持ち帰り、一口。
——頭の中のざわつきが、一瞬だけ消えた。
それから、僕は酒屋の酒を盗み続け、飲み続けるようになった。
酔った勢いで、
「なんで、こんな自分なんだ……」と怒り、
自分の顔を殴り、アザを作った。
でも、なぜかその痛みが心を落ち着かせた。
親には「喧嘩した」と嘘をついた。
野球がなくなった僕は、自分自身をコントロールできなくなっていた。
そして
高校卒業後、僕はある仕事と出会う……。

第5章 大学と迷走の始まり
大学と孤独
19歳。
僕は奈良のFラン大学法学部に、指定校推薦で入学した。学費は奨学金を借りたけど、親が出してくれた。
——今なら、親に感謝しかない。
でも、あの頃の僕は何も分かってなかった。
お金のありがたみも、大切さも、全部他人事だった。
大学に入っても、不安発作の恐怖はつきまとった。
特に少人数のゼミ。あの教室に入るだけで、喉が締めつけられ、呼吸が苦しくなる。結局、出席しなくなった。
気づけば、誰とも話せなくなっていた。
イヤホンをつけたまま、ひたすら世界をシャットアウトした。
唯一、軽音楽部だけが僕の居場所だった。
授業には出ず、ひたすらベースを弾いていた。
現実から逃げるように。
そんなある日、僕は親に言った。
「音楽がやりたいから、大学を辞めたい」
——本当の理由は、言えなかった。
ただ、発作や人間関係が怖くて逃げただけなのに。
⸻
バンド活動と崩壊
大学を辞めた僕は、適当に年上の人たちとバンドを組み、ライブ活動を始めた。
……全然楽しくなかった。
とりあえず、何かしないと示しがつかなかったから適当に入った。
本当はゴリゴリのハードコアロックがやりたかったのに、年上のメンバーは、おそらくB’zに影響されたであろう、悲しくなるようなJポップ。
1年も経たずに脱退した。
理由は簡単。
僕が、まともにコミュニケーションを取れなかったから。
「音楽がやりたい」なんて言っておきながら、結局、まともな人間関係すら築けなかった。

気づけば、何もかもなくなっていた。
大学も、バンドも、友人も。
そんなとき、高校の野球部で、大学も同じだった唯一の友人から連絡が来た。
「けいちゃん!めっちゃええ仕事あるで!今のけいちゃんに絶対ピッタリや!」
僕は、その友人を信じていた。
友人が指定した喫茶店に行くと、いかにもお金持ちそうなスーツ姿の男がいた。
「この仕事をやるには、まず40万円が必要になる」
男はそう言った。
——でも、僕は即答した。
「やります」
断る理由なんて、なぜかなかった。
⸻
ネズミ講と転落
そこから2年間、本気でやった。
……でも、その期間でトータル7万円しか稼げなかった。
借金だけが膨れ上がった。
21歳にして、借金は100万円を超えた。
友達も、いなくなった。
本当に、ひとりになった。
要するに、世間で言うところの「ネズミ講」だった。
でも、皮肉なことに——
この仕事のせいで、僕は営業スキルを身につけ、人前で話すことが得意になってしまった。
気づけば、発作のことも忘れていた。
ただ、一つだけ問題があった。
どんなにお金がなくても、「お金があるように振る舞う」のが暗黙のルールだった。
だから僕は、あるバイトを始めた。
仲間には「副業してる」なんて、絶対にバレてはいけない。
そして、僕が選んだ仕事は——
ゲイバーだった。
働き始めたのは、大阪・歌舞伎座裏のゲイバー。
時給800円。
昼間はスーツを着て「成功者のフリ」をし、夜はゲイバーでお酒を注いだ。
毎晩、朝まで飲んで、ベロベロになり、二日酔いで目を覚ます。
仲間には、「僕、遊びまくってお金あるから、毎日飲みまくってるで!」と強がった。
……でも、現実は違った。
ただの、借金まみれのクズだった。

ホストの世界へ
ネズミ講の仕事をやめた。
残ったのは、ゲイバーのバイトだけ。
(※僕はゲイではなく、純粋に女性が好きだ)
22歳のころ、そのゲイバーに通っていた「お金持ちのマダム」に言われた。
「あんた、ホストやりなさい!あんたなら、絶対イケるで!」
そのマダムが通うホストクラブが、新店舗をオープンするらしい。
その流れで、僕はホストになることになった。
……水商売では「ゲイバーとホストの掛け持ち」なんてご法度だろうけど、そんなことは関係なかった。
僕には、失うものが何もなかったから。
そして半年後。
僕はその小規模ホストクラブの「No.1ホスト」になった。
理由は単純。
お金になるなら、なんでもした。
歯のないおばあちゃんでも、男でも、抱いた。
そして、ネズミ講で鍛えた緩急をつけた営業トーク。
プライドなんて、1ミリもなかった。
そんな生活を続けているうちに、ミナミ・島之内で風俗で働く彼女と一緒に暮らすようになった。
彼女の家に転がり込み、ようやく「食べていける」ようになった。
それから僕は、ホストとしてさらに上を目指すようになり——
ついに、歌舞伎町の超有名大型店舗へ移籍することになった。
そのとき、23歳。

第6章 栄光と挫折
東京・歌舞伎町へ
23歳。
一攫千金を夢見て、東京・歌舞伎町へ飛び込んだ。
テレビのドキュメンタリー番組でよく目にした、青色のイメージが強い有名店。
運命だったのかもしれない。その店の代表が、偶然にも中学時代のひとつ上の先輩だった。
少し気持ちに甘えがあったのかもしれない。だが、自信はあった。
本気で数ヶ月間努力してみた。だが、まったく売れなかった。
全国から集まるトップレベルのホストたちの中で、自分の存在はどんどん霞んでいった。
未来の成功がまったく想像できなかった。
そして、一年も経たないうちに、僕は決断した。
正月休み、寮の部屋でトランクケースを静かにまとめる。
誰にも気づかれないように、そっと店を去った。
「僕は成功してくる!」
そう言って飛び出したのに、たった一年も経たずに帰るわけにはいかなかった。
南へ行くか、北へ行くか。
僕が選んだのは、誰も僕のことを知らない土地——北海道だった。
⸻
札幌での再起
電車で青函トンネルを越え、札幌へ。
手持ちの金は、わずか二万円。
ビジネスホテルに泊まりながら、すすき野のホストクラブを一気に5店舗見学した。
そして翌日、僕はそのうちの一店舗に入店を決めた。
ここが最後のチャンスかもしれない。
ゼロから、死に物狂いで這い上がるしかない。
⸻
ホストとしての栄光
25歳。
僕はすすき野で、誰もが知る有名ホストになっていた。
歌舞伎町でも名前が知られるほどになり、自分でも信じられないほどの富と名声を手に入れた。
高級タワーマンションに住み、どんなに短い距離でもタクシー移動。
毎日外食し、人生で初めて、お金に不自由しないどころか、貯金すら順調に増えていった。
ブランド物には興味がなかった。
僕が好きだったのは奇抜な服や古着。
金に溺れることなく、ただひたすら自分の目標——「自分の店を持つこと」 に向かって貯金を続けた。
そして、28歳で独立。初めて自分の店を持ち、社長になった。
僕の名前はすでに知られていたこともあり、求人には従業員が殺到。
店は瞬く間に繁盛し、わずか2年で5店舗のオーナーとなった。
年商は3億円を軽く超えていた。


天狗になったわけじゃない。それでも……
30歳。
「こんなに辛い思いをしてきたんだから、神様は見ていてくれていたんだな」
僕はそう思った。でも、天狗になったわけではなかった。
100人以上の従業員に、毎日、自分なりの人生論を語り続けた。
「ここは君たちの踏み台でいい。夢を叶えるために、どんどん利用してくれ。」
僕は本気でそう思っていた。
そして、次の挑戦へと踏み出した。
芸能界への挑戦。
ホストクラブとは違う、新たな道。
「人が輝ける企業を作る」
そんな純粋な想いで、芸能事務所を立ち上げた。
⸻
北海道最大級のアイドルプロジェクト
「北海道で、今まで誰もやったことがない規模のことをやる」
そう決めた僕は、自分の経験を活かせる仕事に乗り出した。
大型アイドルグループのプロデュース。
すすき野の一等地に100坪の劇場を構え、札幌駅前には事務所を設立。
メディアCMを大量に打ち、全国から応募を募った。
結果——
728名の少女たちが、オーディションに応募してきた。
新興事務所の怪しさにもかかわらず、これほどの応募があったことは前代未聞だった。
だが、同時に、僕は激しく叩かれた。
それでも、オーディションを成功させ、レッスンを重ね、
劇場公演、テレビ出演、海外ライブ、タワレコやHMVでの営業活動、ZEPPワンマンライブ……
オリコンランキング上位にも入るほどの成果を出した。
表向きは、すべて順調だった。

すべてが崩れた日
アイドル事業を始めて1年もしないうちに、僕と幹部がホストクラブを抜けた。
その瞬間、ホストクラブは連鎖するように全店舗が潰れた。
劇場の家賃は月100万円。
その他の維持費も重くのしかかる。
何もかもが回らなくなっていった。
それでも、なんとか5年間、走り続けた。
だが、気づけば……
あれほどいた従業員は、誰もいなくなった。
手元に残ったのは、1億円の借金と、家賃滞納でゴミまみれの月2万円の部屋だけだった。

死に場所を探した日々
思い出すだけで、吐き気がする。
何度も、首にロープをかけた。
本当に、何度も。
やりたいことは全部やった。
夢も、遊びも、全部叶えた。
もう、僕の人生には何の希望も残っていなかった。
全部、僕のせいだ。
誰のせいでもない。
僕が全員の人生を狂わせた。
その事実は、一生変わらない。
彼らの悔しさや憎しみは、僕の心臓にトゲとして突き刺さったままだ。
……それでも、僕はまだ生きている。
生かされた命。
この命に、どんな意味があるのか。
そんな絶望の35歳。
第7章 どん底と再生
倒産した。
すべてを失い、最後にひとりになった。
10年暮らした北海道を、僕は去った。
その数ヶ月の記憶は、ほとんどない。
精神は崩れ、生きている実感すらなかった。
一文なし。
飛行機に乗る金すらない僕に、手を差し伸べてくれたのは、
かつて世話になったホストクラブの代表だった。
彼がいなければ、僕の命はそこで終わっていたかもしれない。
名古屋まで呼び寄せてくれた。
住む場所を与え、生活費まで支えてくれた。
——まさに、命の恩人だった。
36歳、ゼロからの再出発
数ヶ月間、彼のもとで働きながら、なんとか生計を立て直した。
それでも、この先どうすればいいのか分からなかった。
そんなとき、ふと思った。
「普通の仕事を、してみよう」
ホストでも経営者でもない、ただの労働者として生きてみよう。
そう決意した。
37歳、社会の底辺から
気づけば、もう37歳になっていた。
周りを見渡せば、同年代は立派な肩書きを持ち、
会社の中枢で働き、安定した未来を手に入れている。
一方の僕は、無職。
恥ずかしさなんて、もう通り越していた。
そんなことを気にしている余裕すらなかった。
昼の仕事をまともにしたことがなかった僕は、飲食店のアルバイトを始めた。
ときにはホテルの受付もやった。
かつては100人以上の前で経営を語り、成功を誇っていた。
それが——
大学生のバイトリーダーに指導され、
理不尽なクレームに頭を下げ、
どれだけ頑張っても、どれだけサボっても、変わらない時給で働く毎日。
——でも、不思議と、嬉しかった。
僕は初めて、「普通の社会」を知った。
今まで見えていなかった世界が、ようやく目の前に広がった気がした。
それでも、過去のモヤモヤは消えない。
全てを失った罪悪感。
救えなかった仲間たちへの申し訳なさ。
時間が経っても、それは消えなかった。
それでも、生きている
それでも——
「普通にご飯が食べられる」
「お湯でシャワーを浴びられる」
「公園をのんびり散歩できる」
そのどれもが、涙が出るほど幸せだった。
⸻
40歳、もう一度ここから
そして、今。
とうとう僕は40歳になった。
人生の折り返し地点。
振り返れば、めちゃくちゃな人生だった。
ヤクザの事務所で監禁されたこともあった。
バンコクのストリップクラブで、言えないような豪遊をしたこともあった。
——でも、今の僕には、誇れるものなんて何ひとつ残っていない。
それでも、精神的にも体力的にも、“普通の人間”に戻ることができた。
5年もかかってしまった。
いや、たった5年で戻ってこられた。
そして、僕は普通ではいられない性格だ。
きっとまた何かに飛び込むだろう。
また挑戦してしまうだろう。
でも、誠実さだけは、死ぬまで忘れたくない。
金なんて、これっぽっちもない。
未来は、不安だらけ。
また夢を追いかけるのが怖い。
また同じ失敗を繰り返し、
またすべてを失ってしまうんじゃないか。
そんな恐怖が、僕の足を止める。
それでも——
自由に生きられることが、どれほど幸せか。
健康でいることが、どれほど尊いことか。
好きな人がいることが、どれほどありがたいことか。
40歳になって、どん底からもう一度、スタートラインに立つことができた。
過去の夢は、すべて忘れる。
すべて捨てる。
そして、新しい夢と希望を持って、
もう一度、輝くために。
今までの40年間の経験を、すべて後半戦にぶつける。
必ず、幸せな人生だったと、生き抜いたと、とにかく挑戦しまくったと——
胸を張って言えるように。
残りの人生をかけて。

終章
まず、こんな面倒くさい文章を最後まで読んでくれて、本当にありがとう。
振り返ったところで、何も変わらない。
思い出に浸るだけなんて、クソダサい。
それでも——
なぜ、僕は40年間を言葉にしたのか。
ずっと、何もできないまま、時間だけが過ぎていった。
成功も失敗も、ただ振り返るばかりだった。
だから、この40年にケリをつけたかった。
そして、ここで誓いたかった。
「まだまだ人生は続く」なんて思っているうちに、
気づけば寝たきりの老人になって、
「あっという間だった」と嘆くのがオチ。
それだけは、絶対に嫌だ。
——成功しているときは、人がアホほど寄ってくる。
でも、失敗した途端、誰もいなくなる。
人間なんて、たいていそんなものだ。
仕方ない部分もある。
だけど、僕は違う。
身をもって経験したからこそ、「去る側」にはならない。
そして——
そんなときこそ、そばにいてくれる人を、一生大切にする。
その存在こそが、一生の宝物だから。
だから、もう迷わない。
まだまだ走る。
ただダラダラと「幸せ」を消費するんじゃなくて、
心が震えるような毎日を生きる。
そう決めた。
転機
35歳。
絶望の中でもがき続け、少しずつ自分と向き合えるようになった。
気づけば、かつて気にしていたはずの顔つきも、体も、すっかり情けなくなっていた。
よくまあ、ここまで放っておいたもんだ。
それでも、何かを変えたくて、動き出した。
そんなとき、まるで導かれるように、トレーニングを始めた。
最初はただの気晴らしだった。
でも——
1年、また1年と経つうちに、本気になっていった。
何も考えず、ただ無心に頑張れるものがある。
それが、どれだけ幸せなことか。
そして、40歳。
まさか、ボディビルダーを目指すことになるとは思わなかった。
……人生、何が起こるかわからない。
この選択が僕の人生をどう変えていくのか。
大輪の花を咲かせるのか。
それとも、まったく別の新しい光を見つけるのか。
まだ、わからない。
だからこそ——
強くアンテナを張って、今、この瞬間に全力を注ぐ。
それだけは、決めている。
⸻
ここからが、本当の勝負
こうして、人生の前半戦をまとめ終えた。
ここから先は、まだ何も書かれていない物語。
後半戦は、僕自身の手で、そして——
そばにいてくれる人たちと、一緒に作っていく。
第8章へ向けて——続く。
井上 景介