筋肉よりも、大事なものを鍛えている。
「なんでそんなに続けられるんですか?」
たまに、そう聞かれることがある。
でも正直に言うと、自分でも明確な答えは持っていない。
特別な覚悟があるわけでもないし、意思が人一倍強いとも思っていない。
ストイックなんて言われるけど、
実際は迷うし、サボりたくなる日なんていくらでもある。
むしろ、今でもしょっちゅう心が折れそうになる。
それでも僕は、今日もジムに行く。
誰かに命令されたわけでも、義務があるわけでもない。
ただ、自分で決めて、自分で立ち上がって、鉄を握る。
なぜか。
たぶん、それをやめてしまったら、
自分で自分にガッカリしてしまうからだと思う。
筋肉が欲しくて始めたのは、たしかだった。
カッコよくなりたかった。
弱く見られたくなかった。
見返したい過去も、満たされなかった自分も、全部まとめて“変えてやりたい”と思っていた。
でも、あの頃の僕にとって、筋トレはもっと切実だった。
それを始めたのは、倒産して、
生きる手応えをすべて失って、
毎晩ビジネスホテルを転々としていた頃。
帰る家もなかった。
誰にも言えなかった。
言葉にしたら、自分が本当に壊れそうだった。
電気をつけるのも怖い夜、
カーテンの隙間から見える街の明かりすら、眩しすぎて目を逸らしていた。
なにもない部屋の中で、
ふと、何の気なしに腕立て伏せを始めた。
10回もできなかった。
だけど、その10回がすべてだった。
動けたことに、少しだけ心が揺れた。
「……俺、まだ終わってないかもしれない」
そう思えたことが、
あのときの僕にとっては、何よりの救いだった。
そこから、少しずつ、筋トレが日課になった。
腕立て、スクワット、腹筋。
やれることを、できる範囲で。
やらなきゃ壊れそうだった。
だから毎晩、同じ動作を繰り返した。
あの頃は筋肉のためというより、
自分を繋ぎとめるために身体を動かしていた。
筋トレは、身体を鍛えるためのものじゃなかった。
心を守るための時間になっていた。
いま、僕には応援してくれる人がいる。
SNSで「見てますよ」って言ってくれる人がいて、
「自分も頑張ろうと思いました」ってDMをくれる人がいる。
そんな言葉に支えられて、僕はまた一歩、進めるようになった。
だけど、どれだけ応援の声があっても、
一番大切にしているのは、
“自分が自分をどう見ているか”
ジムで汗をかいて、息を切らして、
静かに着替えて、
ひとりで帰る道の途中。
そのときふと、
めいっぱい今の自分を好きになれている。
この感覚こそが、僕にとってのご褒美です。
筋トレは、筋肉を育てるためだけの時間じゃなくなった。
気持ちを整える時間。
誰かと比べるためじゃなく、“今の自分とちゃんと向き合う”ための行動。
焦る日もある。
落ち込む日もある。
「もうやめてもいいかな」って思う日だって、なくなったわけじゃない。
でも、それでも僕は、
今日も鉄を握る。
筋肉のために。
身体を変えるために。
そしてそれ以上に、
“ちゃんと生きてる”と思える時間のために。
これが、僕が筋トレを続けている理由です。

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